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カジュアルな天才性

「ハラスメントはダメ!」というルールが構造的に機能しない理由とは

こんばんは、榊原です。

最近、仕事をはじめ社会的な活動をするにあたってハラスメントへの意識が高まっていると感じませんか?
それに伴って、いたるところでルールの整備が検討され、ルール破りに対する世間での風当たりも厳しくなっています。
でも、私が思うに単にルールを作るだけではハラスメントを取り巻く問題は解決しないかもしれないと思うのです。

ハラスメントとルールの共通点

意外かもしれませんが、そのように思うのは、ハラスメントとルールに共通性がみられるからです。

共通点というのは、どちらも何かしらの”圧”で相手に有無を言わさず何かを強制しているところです。
ハラスメントは個人の立場による圧で、ルールは集団による圧であるという違いはあるものの、結果は同じです。
相手に納得感のないまま「やらされる」ような感覚を味合わせることがあるということです。

官僚主義がはびこって、ガチガチにルールだらけの環境では、ハラスメントも生まれやすい可能性があります。
正しいか間違っているか、という価値観をベースに話すことが習慣付いていることで、何かしらの”圧”で自分の正当性をごり押しすることにインセンティブが生まれるからです。
ただでさえハラスメントが生まれやすい中で、さらにルールできつく縛り上げていたら、負の官僚主義ループが完成します。

ルール作り以外の選択肢

であるのになぜ多くの人がルールを作りたがるかというと、要は手っ取り早いからです。
極端に言うと、殴って暴力で言うことを聞かせればいい、というのと変わりません。

この逆は「相手によりクリエイティブであることを選択させる」ことです。
具体的に言うと相手の自由意志で、問題行動をするよりもっと良い方法で目的を達成できる選択肢を選ばせる、ということです。
こういった態度はハラスメントをうまないだけでなく、イノベーティブであり、かつ問題が起きても会社が音頭を取るまでもなく各自で解決していけるようにな環境作りに寄与します。

企業がすることとは

ルールも、それがもたらしうる結果を自覚しているなら、責任をもって作って運用したらよいと思います。
しかし、もしそうでない選択肢を選ぶのであれば、ルール作りではなく、「ハラスメントをするよりよい方法がある」と身をもって示すことが求められるのではないでしょうか。

それはつまり、相手と対話をする気を見せるということです。
ハラスメントをした加害者だからといって、問答無用で罰しない、ということでもあります。

実はハラスメントをした人も、加害者意識はないはずです。
なのに何故ハラスメントのような問題行動を起こしてしまうかというと、これまでのその人の人生においてそのやり方が一番だと学習してきてしまったためなのです。
家庭、学校、これまでの職場環境など、必ずしも今ここの環境とは関係のないところで、身に着けてしまった思考の習慣によって、「これしかない」と思い込んでしまっている状況ということです。

その中で、企業が加害者との対話を通して「ハラスメントをするよりクリエイティブなやり方」を見つけ出せるようガイドをするのです。
ハラスメントを撲滅し負の官僚主義ループを脱するために、それだけの労力をかけて向き合う覚悟はあるでしょうか。

違いを超えて対話をするために

月並みな言い方ですが人はそれぞれ違いますし、究極的には「正しい/正しくない」もありません。
そんな中で、闇の中をかいさぐるように全くのゼロから理解し合うことは多大な労力がかかるとしても、ある程度のパターンで分けられたら便利ではないですか?

仕事のような場ではウェルスダイナミクスのタイピングはかなり使いやすいと思います。
それでなくても、この世界にはタイプがいて自分はどんな傾向があるのか、ということをまず知っておくことはあらゆる場面で省エネになります。
そして最終的には「正しい/正しくない」というジャッジを減らし、互いの違いを受け入れやすくなると思うのです。
お互いが違う前提であれば、一方的に主張を押し通すのではなく、折り合う地点を探る気になるのではないでしょうか。

もちろん、違いをハラスメントの材料にしないことは当然のことですけどね!

あなたは、ハラスメントをなくしていくためにどんな行動をとりますか?
アウトプットはコメント欄にどうぞ♪

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